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バージル・アルカジの芸術ヴィジョンは止まることなく発展し続け、それが表現する飽くことのない美的精神と、
それが駆り立てる形態・テックニック・主題についての尽きない探求心を映し出している。この芸術家の仕事の
各段階はそれぞれが独立したものではあるが、必然的にそのどれもが彼の長く途切れない人生の旅路の結果であ
り、この芸術家の精神と知性ある心を表現し、それらは変化はしないがいつまでも成長し続ける。アーティスト
の中には、自分の時代に語りかけ、その時の社会的、精神的、美的関心を表現する者もいれば、永久的テーマを
映し出し、先駆者の古典的技法を用いながら過去の精神を永続させようとする者もいる。現代的か伝統的かとい
うこの異なる焦点の合わせ方のどちらにもその価値と功績があり、芸術の発展を俯瞰すればどちらにもその重要
性が見出せる。しかし、どちらも創造上の限界を引き継いでおり、危険性もある。画家にしろ彫刻家にしろ、あ
まりに特別に自分の時代を取り上げれば、今日のニュースを報道し翌日にはその仕事は忘れ去られてしまうジャ
ーナリストのようになってしまいかねない。そして、この内容についての真理と同じことが様式にも言えよう。
美術の歴史はトレンディなスタイルと主題の断片の数々で取り散らかっているが、それらが注目を集めるのだ―
そして、高値も呼ぶ。だがそれもワンシーズンだけですぐに消えていってしまう。一方、過去の月並みな道のり
を旅する伝統主義者は人を驚かせるようなことはしないし、大家の「流派内で」制作しながら、その弟子以上の
高い地位を目指そうというような野望もない。

真に時間を越えつつもコンセプトのレベルでは時代にかなうような作品を創造するために、過去と現在の様式・
内容を融和させ、また現在と未来の両方について同様の明瞭さをもって語れる芸術家はめったにいない。そのよ
うなアーティストが、バージル・アルカジである。彼の刺激的な仕事は、そのテーマ性においても様式においても
何世紀にも渡る範囲にまたがっていて、普遍的なものを完全に現代的表現で扱う。しばしば謎めいた内容を持つ
彼の芸術作品は、17 世紀のマナーハウスの壁にも21 世紀のアパートメントの壁にもふさわしく、挑戦的でもあろ
う。

すばらしく複雑なコンポジションの中にコンセプトと表現を調和させるバージル・アルカジの知的鋭敏さは、その
絵画的テクニックのうちに反映されている。それらコンポジションの数々では表現主義と印象主義、綿密に様式
化されたフォーマリズム、優美なミニマリズム、そして抽象という多様な響きが奏でられている。象徴的コミュ
ニケーションを目的として彼が用いる形象によって、1890 年代フランスの象徴主義の画家や詩人が思い起こされ
る。時には驚かされるような並置を見れば、1920 年代のフランスとイタリアのシュールレアリストが心に浮かん
でくるし、アルカジの高みに昇るような星型や鳥を思わせる形態が持つエネルギーは、アメリカの1950 年代のジ
ェスチュラル(手仕事的)な美術を示唆している。しかし、彼の長いキャリア全体に渡って、また発展し続ける
彼のヴィジョンや尽きることなく疲れを知らない形態の探求における多くの段階を通して、バージル・アルカジの
巧妙に統合されたコンポジションの数々は、一貫して、テーマ内容と視覚的デザインのどちらにも平等な関心を
持って構成されてきた。

このアーティストの様式とメディアの幅の広さと同じく印象的で、さらに際立っているとも言えることは、彼の
創造目的における統一性であり、それは一般の好みやファッションが数ある変遷を遂げる中にあっても維持され
てきた。40 年以上に渡る熟達した仕事を通して、自分自身の審美的ヴィジョンを厳しく守ることから逸脱するこ
とはなかった。テクニックにおいては柔軟に、主題やテーマでは多様性を持ちながらも、バージル・アルカジは間
違いなく揺るぎようもなく彼自身であり続け、彼が目にし経験する世界への敏感な反応を多様なジャンルで表現
してきた。通常アーティストが現実についての変化してゆく自分の知覚を具現化し始める際に用いる様々なモダ
リティを彼も追求したとすれば、それは間違いなく彼の私的ヴィジョンからなされた。1961 年制作のクレヨンで
描かれた母親の力強いポートレイト-これは容易にピカソの初期の作品にとられるであろう-と、その9 年後の
インクによる父親のポートレイトは、1974 年制作の作品《デスモンド/ Desmond 》の4 つの官能的なヌードの習作
と同様、彼が線描に熟練していることを証拠立てるもので、最も古典志向に傾いている再現主義者の証ともなっ
ていよう。しかし、1960 年というような早い時期、彼が22 歳の時には、半抽象の形象を創っていたのだ。その年
のグワッシュの作品《ポートレイト/ Portrait 》とキリスト教的シンボリズムの作品は、そのコンセプトにおいて
すばらしくオリジナルなものである。フォーヴィズムの色彩で描かれ、その断片性が印象的な《マドンナ/Madonna 》と苦渋に満ちた《キリストの磔刑/ Christ Crucified 》は、成熟したアーティストの到来を見事に予兆し
ている。

1960 年代はまた、バージル・アルカジがその芸術において古代を拠りどころとしていた時期にあたる。「原始的
な」ものから抽象的なものへという美術における歴史的進行がひと回りして、我々にとって遥かかなたの祖先の
太古のイメージが最も現代的なアーティストのそれと興味深いかたちで結びついたのだった。古代のモティーフ
が持っていた意味的内容はその多くが我々にとっては失われたものとなっている。我々は葬儀に関する装飾品、
あるいは洞窟のドローイングが持っていた祝祭的・懐柔的機能や英雄的モニュメントの中に具現化された精神的
重要性について、ただ思いをめぐらすほかはないのだ。しかし、それらの原型的デザインが持つ純粋な形態はそ
れらの力を保持し、時代を経ても衰えることはない。原初的な美学とこれら古代の形態への感情的反応を、我々
の時代の視覚的枠組みの中で呼び覚ますことができるのは稀有な感受性である。見事なペインティング・シリー
ズ《クレタ人/ Cretan 》(1963 年)―《サーカス/ Circus 》と《風景/ Landscape 》はインクによる―の中で、この
アーティストはその古い源が持つ根本的なダイナミックさについて何かをとらえている。同じ年の《礼拝者、広
場、月/ Worshipers, Square, & Moon 》が持つ様式化されたコンポジションにおいては、彼はもっとデザインに集中
しており、棒のような形をした礼拝者たちの配置を通して作品の形態的構成を強調し、その題名によって彼の視
点を補強している。

仮に古代のモティーフや遠い昔の様式化された形態の探求が1960 年代のバージル・アルカジの仕事のある面を特
徴づけているとしても、それらのペインティングが現代的要素に欠けるようなことはまずない。《風景の中の人
物/ Figures in Landscape 》と《愛人たち/ Lovers 》という1963 年制作の2 点は大胆にも純粋無垢に見せかけている
インク・ドローイングだが、その作品が暗示しているイメージの中には遊び心あるモダンさが備わっている。も
っと暗くシュールレアリスティックなものは、不安感が漂う《死んだ胎児の命と誕生/ Life & Birth of Dead
Foetus 》と《夜景/ Nocturnal Landscape 》で、共に1966 年の作品である。この10 年間が進行する中、彼が誕生と
死という次第にドラマ性を増していくイメージを収めた夜景シリーズに専心するにつれて、この作家のヴィジョ
ンはさらに暗くなっていく。1966 年の《妊婦と鳥/ Pregnant Woman & Bird 》は、原始自然への畏怖の念を喚起す
るようなはらわたで感じさせる質を持っている。1967 年の《誕生と生命/ Birth & Life 》と《愛人たちと夢/ Lovers
& Dreams 》シリーズは、光と闇の生き生きとしたコントラスト、雷の閃光と際立ったイメージを持ち、どちらも
忘れがたく、また不安感を起こさせるものだ。1968 年の夢のような《母と子/ Mother and Child 》と《死から逃れ
る鳥/ Bird Fleeing Death 》にはさらにそれが言える。

バージル・アルカジの初期のヴィジョンがいつも不安感から生じるもの、あるいは不安を生じさせるものというわ
けではない。1973 年から74 年にかけての《魚のいる海景/ Seascape with Fish 》シリーズでは、きちんとパターン
化された形象がやはり同様にきちんとして均整のとれた海岸に沿って滑るように進んでいく。それらは、晴朗な
精神を反映した魅力ある子供のような無垢さを持っており、特に夢に刺激を受けたと思われる作品は平和でさえ
ある。1970 年のコラージュ・シリーズ《夢の風景/ Landscape of Dreams 》は、実際、晴朗に見えるだけではなく、
所々喜びに満ちた作品だ。だが、作家自身は3 点から成るこのシリーズについてメランコリックな覚書を付して
いる。1970 年に彼は次のように書いている。「夢に伴う悲劇は、それらがあまりに孤独で、他の者がまず考慮さ
れないことだ。それだから、それをジグゾーパズルのように集めるときには、他の人も他の断片も合わないし、
そうしたくもないのだろうし、できないのだ。たぶん、それらは違う絵に属している―誰か他の者の夢に。」

1970 年代後半の作品の大半について、人間の姿は全く見られないか、ほとんど見られないと言ってよい。だが、
人間の精神ははっきりと見てとれる。《賛美の夜/ Night of Glorification 》シリーズの中の1976 年の絵画作品2 点
と、次の年に制作された《来てごらん、栄光の夜がきた/ Come, the Night of Glory Has Come 》では、そこで何の栄
光が讃えられているのか、あるいは何によって讃えられているのかということは定かではない。しかし、その栄
光の恩恵を受けているのが人間であることは明らかだ。そして1976 年の《創造の誕生/ Birth of Creation 》はまさ
に大きな喜びに満ちている。実際に、あるいは予見されたことでもあるが、この時期からこの作家の作品の中で
愛が多くを占めるようになっていく。1980 年に制作された《愛人たちの変容/ Transmutation of Lovers 》シリーズ
の2 点と《愛人と殺人者はひとつ/ The Lover and the Killer Are One 》という不安感が漂う題名を持った作品に見ら
れるように、それは時にはっきりと表現され明らかに身体的であり、それらの主題である身体が溶け合っている。
その時までにバージル・アルカジの海景から魚は姿を消し、人体がはっきりとその中心となっている。事実、1981
年の《人物I とII が見える海景/ Seascape with Figures I and II 》は、ほとんどそれのみといえるほど焦点は人体に
合わせられている。それらの背後あるいはそれらの下に潜む海については、観る者はこの作家の言葉を信用する
しかない。これらの絵画に見られる人体は《愛人たち》シリーズの作品に見られる人体と同様いかにも様式化さ
れているが、人間であることは明瞭であり、暖かい肉体のトーンを使って確実に豊かに造形化され、暗い背景の
中で輝いている。

1980 年代初期のバージル・アルカジの絵画で称揚されている愛がいつもエロティックなものというわけではない。
それは官能的というよりもむしろますます精神的なものとなっていく。ジョージ・S・ウィッティットは次のよう
に述べている。「1970 年代には、彼の絵画は神秘主義を暗示する要素でおおわれていた・・・ 1980 年代初めまで
には、象徴的で現世的かつ彫刻的なマッスとして至近距離で愛人たちをテーマに制作した時期を経て、アルカジ
は内的な意識にのぼらない衝動に形を与えようという探求を再開した。」1 1982 年の油彩画《変容された愛人た
ちと飛行・・・I / Transmuted Lovers & Flight …I 》では、愛人たちの姿はまだ明らかに存在しており、冷たく不気味
な宮殿のアーチを通して遠くぼんやりと見える。しかし、1980 年の《愛人たちの変容》の中の彼らに比べると大
きく変容していて、彼らを取り巻く神秘的な構成と暗い空にのまれてしまいそうだ。同年制作の高度に精神化さ
れた絵画作品《魂の誕生を待って/ Awaiting Birth of Soul 》、《魂、その瞬間を待って/ A Soul, Awaiting the
Moment 》、《満たされた魂、汝の家への帰還、祝福され平和のうちに/ O Contented Soul, Return to Thine Abode,
Blessed and in Peace 》の中では、彼らは全く消え去ってしまっている。これらの絵の中で人の形を知覚するのは難
しく、彼らは肉体的な意味での愛人たちではない。彼らは純粋に精神的なものに変容されていて、安らかに天上
に昇っていく。

1980 年代のバージル・アルカジの仕事では精神性と抽象性が増大していったが、彼が現実世界と身体的形態に基づ
くことを止めることは決してなかった。コラージュという、平らな表面に用いるにはまさに最も適したメディア
を使った彼の初期の実験は、1970 年の《夢の風景》のシリーズで終わりはしなかった。同年には、ライザ・ミネ
リの写真を断片化して肖像画法の可能性を探求し、その作品を《ライザ・ミネリとライザ・ミネリ/ Liza Minnelli
and Liza Minnelli 》と題し、1 枚の絵の額縁内で、時の一瞬のうちに、女優と私人という2つの顔を見せ、それら
がどのように相互作用をするか、どのように表現されるかを見せている。1985 年にバージル・アルカジは腕の腱を
痛めて一時的に絵が描けなくなった。その際、彼は自分の創造性を生かせる別の分野を探し、フォトモンタージ
ュのアイデアを楽しみ始めた。出所が異なる写真の断片を構成して作られるイメージすなわちフォトモンタージ
ュは、ダダイスト以来見られるようになり、1918 年からこの用語が使われるようになった。しかし、このメディ
アが広く知られるようになったのは、1983 年にニューヨーク市にあるエメリック・ギャラリーで開催されたデイ
ヴィッド・ホックニーによる展覧会で、彼が自分の作品を「フォトコラージュ」と呼んで紹介した時からである。
この展覧会の評は様々であった。『Artscribe』の中でスチュアート・モーガンは、「用いられた様式が主題を殺し
てしまい、全体の仕事を単なる技術的な習作程度のものにしてしまった」と書いている。しかし、『British
Journal of Photography』では、この展覧会は「この10 年余りの間で最も重要な写真展」と評されている。デイヴ
ィッド・ホックニーのようにバージル・アルカジも、同じ主題を持つたくさんの写真から要素を取り出してきて、
彼のフォトモンタージュを構成する。彼の《パッティ・パラディン、3 羽のトキ、ザリガニはいない/ Patti Palladin,
3 Ibis & No Craw Fish 》は103 点ばかりの写真を構成要素としているし、《ロナルド・クフタとメガネ/ Ronald
Kuchta & Glasses 》では60 点ほどである。どちらの作品でも、この作家は写真を撮る時に故意にカメラを動かし
て、動きあるダイナミックな感覚を生み出すことに成功している。

展覧会を考えるわけでもなく、またデイヴィッド・ホックニーの仕事のように、販売のためのエディションの作
成を念頭におくわけでもなく、私的な気晴らしのごとく、バージル・アルカジの写真に登場するのは全て彼が知っ
ている人たちである。古くからの友人も、最近の友人も、皆、この作家と私的な関係を持っている。主題となっ
ている人々は皆、ポーズをとり静止しているが、その多くが「スナップショット」的動作の質を備えている。こ
の動的効果はイメージそのものの中で形態的要素を芸術的に用いていることからも生じている。《ティム・パゥ
ウェルと縞模様/ Tim Powell and Stripes 》と《11 時15 分のロナルド・クフタ/ Ronald Kuchta at 11:15 》(1987 年)
はどちらも、変則的に配置された被写体のシャツのストライプ模様に負っている。(後者のタイトルにある時間
は、絵の中のクフタの時計の針の位置を示している。)《ロナルド・クフタとメガネ》ではそのモデルのジャケ
ットのパッチワークのように見えるものが生み出されている。エヴァ・J・ペイプの魅惑的な肖像に動きを与えて
いるのは彼女の贅沢な服の断片でもある。ユーモアをもって名づけられ構成された《ヴィヴィアンヌ・タール・
ウェッヒターと痛めたつま先/ Vivienne Thaul Wechter & Bruised Toe 》(1988 年)では、その厳粛な被写体の腫れ
上がった踵が、ある種のこっけいな脚注のように独立した部分として付け加えられている。これら作品の小さな
コレクションがフォーダム大学で展示され、1988 年には本として発行された。しかし、この高度なメディアを使
った仕事について作家自身は大げさなことは求めていない。彼が述べているように、絵画制作中に短い空き時間
があればいつでも「創造性の交替形態として」写真を追求する。その位置づけは彼を悩ませるようなものではな
い。「良いアートか? 悪いアートか? それとも、一体アートなのか?」と、彼は修辞的に問いかける。「率
直に言ってどうでもいい。それを楽しむし、それが問題の全てなのだ。」2

バージル・アルカジは、ひじの怪我のためこのようなかたちで創作する必要があった間にも、彼の人生においても
っと重要な仕事から長く離れることは決してなかった。1980 年代半ばには、彼の芸術はその具象性がより少なく
なり、より深い幻想性を持つようになる。そして、その象徴性は時にはあいまいだが、いつも強く心をとらえる
ものであった。《そして、彼らはまだささやいている、あなたもまだささやいている、彼らはまだ待っている/
And Still They Whisper, Still You Whisper, Still They Wait 》(1986 年)というような神秘的な(そして、神秘的な題
を付された)絵画では、様式化された人の姿が、やはり高度に様式化された建物の1 つにあるアーチのもとに2
つのグループに分かれて集まり、不可思議な会話に夢中になっている。その構成はエレガントなバランスの中に
うっとりとさせるような魅力を持ち、その内容は神秘性の中に好奇心をそそるものがある。同じく、たまらなく
魅力的なのは翌年に制作された3 点から成る絵画シリーズ《時間における変容/ Transmutations in Time 》だ。そこ
では、深く染み込んだような暗青色と紫色で描かれた暗い夜に浮かぶ、我々の天文学では未だ知られていない天
体の下で、お化けのような人の姿が動いている。1987 年制作の他の絵画では、三角形のモチーフが繰り返し現れ
ている。これはバージル・アルカジが自分の優美なパーソナル・ロゴにも実際に用いている古代の秘密のシンボル
で、ここでは深遠な効果を生み出している。《待って、見てごらん、どうやって来るか見よう、あの地峡を越え
て/ Wait, Look, See How It Comes, Across the Isthmus 》と《さあ、やって来る、どうやって来るか見よう、愛の印/
And Now It Comes, See How It Comes, the Seal of Love 》のシリーズでは、複数の幾何学形が合わせて使われている。
巨大な惑星がたくさん飛び交い、燦爛たる巨大な光線が不透明な夜を切り裂いているような燦然と光り輝く空の
下で、「ソロモンの封印」として知られているへブライの伝統的シンボルを形作るように三角形が重ねられてい
る。これらのモチーフは1990 年代に入っても続いているが、色彩の幅は広がっている。すなわち、1991 年のグワ
ッシュ・シリーズ《変容III、IV、V、VI / Transmutations III, IV, V, and VI 》では、紫色の微妙な色調の中に、巨大
で白熱光のようにきらめく馴染み深い円と三角形が描かれている。1992 年に制作された13 点組グワッシュの雄大
な作品《最後の晩餐/ The Last Supper 》では、さらに深みを増した陰影、黒に近い豊かな金色と青色が見られる。
この作品は現在、サンタバーバラ美術館にある。

「この時点で、ノンオブジェクティヴ(非対象)から離れ、とはいえそれはまだ象徴的絵画ではあったが、そこ
から離れて『最後の晩餐』というテーマにのっとったすばらしい一連の小像を描くという方向転換があった」と、
評論家のマックス・ワイクス=ジョイスはこのシリーズについて書いている。「このテーマを選ぶことで、バージ
ル・アルカジは、14 世紀から今日、すなわちフラ・アンジェリコからスタンリー・スペンサーに至る西欧絵画を流
れる伝統の中に自らを位置づけた。ナザレのイエスとその弟子たちという晩餐の参加者の手とそのテーブルで回
された儀式用ワインのカップを描写することで、彼は過去の絵画や歴史的イメージとの退屈な類似性を巧妙にも
避けたのであった。

冷静に見ることによって、彼らはとても奇妙なグループとしてうまく描かれているのかもしれない。彼らの中に
は、4 人の漁師―穏やかな2 人と、『雷の息子』と名づけられたほど燃えるような信念を持った他の2 人―、大工、
収税人、貴族、そして不平を抱いた失意の闘士がいた。バージル・アルカジの『最後の晩餐』では、誰もがワイ
ン・ゴブレットに添えられた両手以上の何ものでもないとされ、そのように表現されている。そして、そのワイ
ン・ゴブレット自体が聖杯として、中世の歴史と典礼の歴史の中に入っていく。この《最後の晩餐》の連作に目
立っている色は、手に見られる金色系の人体の色合いとワイン・カップの金色で、それらが夜空の青色をした背景
と漆黒の前景によって際立っている。」3

夢、記憶、精神、愛、時間、これら全てが作品のモチーフとして繰り返しバージル・アルカジの作品に戻ってきて、
作品の構成、連想、形態、色彩の中で尽きることなく多様な姿を見せる。同じように作品に広く見出せるものは、
進行のテーマ、すなわち精神の高揚であり、今や理想化された上昇形態、すなわち天体として表現されている。
霊感を受けて制作され、また霊感を吹き込むような作品となった1996 年のグワッシュ《海景の中の花咲く月II /
Blossoming Moon in Skyscape II 》は、ニューヨーク州立大学パーチェス校にあるニューバーガー美術館の収蔵品と
なっているが、この作品の中で、魂は次第に丸くなっていく月として表現されており、夜空の中で暗闇から姿を
現し満月になってゆく。作品の大きさはこのテーマの重要性にとっての必須事項で、縦がほぼ90 センチメートル、
横が420 センチメートル以上もあるこの8 枚組絵画作品が与える衝撃の本質的要素となっている。《夢の香りIII /
A Fragrance of Dreams III 》は翌年に制作され、現在はオハイオにあるデイトン美術研究所に収蔵されているが、
この作品ではもっとはっきりとした象徴性が見られ、そのメッセージも同様に積極的なものだ。漂いながら上昇
してゆく孤独な魂、それが光り輝く月の数々が作るアーチによって照らし出され、光を放ちながら濃青色の天空
を通過してゆく。

フランス南部に移った後、1999 年から2000 年にかけて、バージル・アルカジの晴朗な神秘主義が変化した。官能
性豊かなコンポジションの中で、沈みがちな青系統の色合いから胸がときめくような黄色系と鮮やかな緑色系へ
と変わったのだ。抽象は造形美術とグラフィックアートの中でも、通常、最も禁欲的なものである。正確な描写
は全く意図せず、自然に基づくものにしろ、純粋な形態上の実験から生じるものにしろ、連想を誘うようなこと
も必要としない。そして、特定のものよりもむしろ普遍的なものを扱う。すなわち、実体的なもので煩わされな
いような形態である。しかし、全ての抽象芸術がその内容から物質界を除去しているわけではない。ピカビア、
アルプ、ミロらは皆、「ノンオブジェクティヴ(非対象)」だが多かれ少なかれ自然をはっきりと喚起させるよ
うな生物的・有機的形態を持つイメージを描いた。バージル・アルカジによる《春の祭典/ The Rites of Spring 》シ
リーズの中のグワッシュ作品では、抽象化された花の渦巻くような原形質的な形状と燃え上がるような黄色が、
強烈な感情的エネルギーを見せている。抽象とは、主題から徹底的に形態と色彩を剥ぎ取ることによって、純正
なる知的精神に訴えかけることを目的としているのかもしれないが、バージル・アルカジの世紀変わり目の作品に
登場する光り輝く形象を見れば、誰でもそれが呼び覚ます濃厚な官能性の源に気づくであろう。《春の祭典》の
まばゆく光る花々、無限の空間を突進する惑星や太陽そして月でいっぱいの豊かな色調を持つ空、古典的幾何学
の冷静な形とのバランスをとる渦巻く形態は、すばらしい広がりを持った美的インパクトを与えてくれる。

バージル・アルカジのイメージは神秘的で複雑な私的ヴィジョンを表現している。その魔力で、我々を時には内向
的に導き、また無限の空間に誘い出すこともある。その広がりは小宇宙から大宇宙、安定したものから動きのあ
るもの、原生動物から惑星、固有のものから天界のものにまで至っている。《春の祭典》シリーズでは、彼は豊
かな隠喩に富むと同時に、ストラヴィンスキーのように革新的でもある。ストラヴィンスキーのバレエからこの
シリーズの題名がとられたのかもしれない。この作曲家のようにバージル・アルカジも深遠な内的連想の枠内で創
造するアーティストであり、彼の光を放つカンヴァスはいつも、独特に私的なイコノグラフィーを用いて表現さ
れた、現実についての彼の私的なヴィジョンの投影となっている。

評論家ドナルド・カスピットは次のように洞察している。「バージル・アルカジは現実界の自然が持つ原型の中に
宇宙的自然の生命的原型を見い出した。彼は、空っぽの形態に見えるものが原型的内容を持っていることを示し
ているのだ。その豊かな色彩とダイナミックな線は、彼の精神的エネルギーに満ちた花の数々や天空のオブジェ
が原型的重要性を持つことを我々に確信させるのに役立つ。すなわち、それらを精神的な実体として再び創出し、
自然の生命は同時に精神的生命であり、そのように宇宙の精神的目的と神聖なる特質の現れであることを示すの
に役立っているのだ。地平線あるいは天と地の境は精神的エネルギーに満ちた花々でおおい隠され、天界のオブ
ジェがそこから今にも姿を現そうとするかのようであり、自然空間と宇宙空間―暗黙のうちに、物質と精神をさ
す―の分離が絶対的なものとはとても言い難いことが示唆されている。『健全な眼には地平線が見える』4と宣言
したエマーソンに彼が同意しないのは、この点に関してだけである。バージル・アルカジは、その眼が地平線を越
えて、またその意識的枠組みを取り去って、はるか彼方を見ることができて初めて真に健康であるということを
見せている。」5

バージル・アルカジが自らの仕事人生を通じて常に呼び起こしてきた原型は、この作家の内的論理に従うものであ
り、彼自身の神話を反映している。謎めいて、挑発的でもあり、時には不安も生じさせるような彼の私的言語は
理性に挑戦し、その言語をそれ自身の知的、精神的、美的表現で用いている作品を受け入れるように観る者に強
いるかもしれない。それは決してそのまま描かれたものには陥らないが、この世のものではないものを呼び起こ
し表現するためにそうしたものを用いることもある。次のようにドナルド・カスピットが他で記しているように。
「バージル・アルカジの芸術は・・・神聖な、精神的芸術である。それは、その芸術が神聖なる幾何学と神聖なる生
命を結合させているからである。抽象は、それが日常世界の外観を消し去るというだけでも、神聖な感覚を呼び
覚ますには最良の方法である・・・超越したエクスタシーがバージル・アルカジの究極的な主題である。」6

彼の仕事の適切性は、実際のところそれは全ての芸術のものでもあるのだが、ドナルド・カスピットに次のような
問いかけを促している。カスピットは「芸術が人間性のために成し得たこととは何か?」と問い、自ら次のよう
に見事に答えている。「この問いかけをする中で、私は科学とテクノロジーが何を人類にもたらしたかというこ
とを意識している。『Newsweek』誌の特集号で『発明の力』、もっと詳しく言えば『激増した発見の数々は20
世紀の我々の生活をどのように変えたか?』という問題を扱っている。では、20 世紀美術は我々の生活をどのよ
うにより良く変えたであろうか? この問いこそが、私のバージル・アルカジの芸術についての論議を潜在的に活
気づけているのであり、ある答えを提供してくれる―それは私にとって20 世紀美術の最も偉大な伝統であるもの
の中に彼の芸術を位置づけるような答えだ。彼の芸術は、カンディンスキーやロスコの芸術と同様に、1 世紀の間
その精神的意味を持ち続ける。その1 世紀とは、物質的には輝かしいものとはいえ精神的には破綻してしまって
おり、人々に破滅的な感情的結果をもたらしているような時代である。彼らの芸術のようにバージル・アルカジの
芸術も、カンディンスキーが『芸術における精神的なものについて』の中で『内的生活の大いに重要な閃光』と
呼んでいるもの―近代世界では『単なる閃光』―に関心を持っている。それは、色彩の『内的な意味』あるいは
『精神的震え』の中に暗示されており、色彩そのものがある生命を持っているように見える。カンディンスキー
やロスコによる色彩についての神秘的芸術のように、バージル・アルカジのそれも『微妙な、未だ名づけられてい
ない感情を呼び覚まそうと努める』のだが、その感情とは、日常生活の中で生じる感情よりも微妙なもの―内的
生命で輝いた感情、また内的生命の源のように見える感情―である。」7

21 世紀の最初の10 年間に入って、バージル・アルカジの焦点は移行した。それは、それに先立つ数年間に見られ
た秘儀的なイマジネーションから自然の中の堅牢な形態への回帰へと進む中で生じたが、もっと抽象的な作品
《春の祭典》に顕著であった「超越的エクスタシー」は変わらなかった。1999 年から2000 年にかけて制作された
このシリーズが持つ謎めいたイメージは、よりはっきりとした有機的形態に変容したが、それらは同じく強烈な
精神性をもち、その象徴性は時として同じように私的なものであった。このような作品で非常に力強いものとし
て、1 日の時間を探求したシリーズ(2002 年から2003 年にかけて制作された《夕闇、たそがれ、日没/ Dusk,
Twilight, and Sunset 》、彼の初期の作品と同じく、全てに私的なイコノグラフィーが見られる豊かな作品群)や、
季節に言及したもの(2003 年制作の《花開く春/ Blossoming Spring 》、情熱と叙情性が同時に見られる)、そして
同年に制作された古典的風景画の数点が挙げられる。目下のところ、この作家の初期の仕事の多くに繰り返し現
れた構成的要素は見られず、彼はある種の震えるようなノスタルジアを持つ自然界に取り組んでいる。

「かつて私はインスピレーションと表現を求めて、内的にまた天空に向ってそれらを探したものだった」とこの
アーティストは書き、次のように続けている。「しかし、フランス南部のモナコに移ってからは、私の中でささ
やきが聴こえ、それが私の創造的ヴィジョンに変更をもたらし、地上の楽園に向うようになった。」 さらに具
象的に、また現実に焦点を合わせるようになり、おそらくそれゆえにさらに喜びに満ちたものともなってきて、
彼の最近数年間の仕事は、テーマにおいては地上に降り立ちながら感情的には成層圏に昇っているといえよう。
地中海の環境がもたらした影響は、彼の表現の中の暖かさや鮮やかさ、その私的な調子が持つ平静さと晴朗さの
中に見てとれる。そして、近年では彼の主題の選択にも現れている。すなわち、2004 年から2005 年にかけてのユ
リの花で、その高貴な種類が持つ驚くような形と色が全て探求され尽くされているのだ。そして、2006 年から
2007 年にかけての豪華なアイリス。これら自然界の宝石は何世紀にも渡って芸術家たちに素材を与えてきたが、
どれもが彼独自の感受性をもって知覚されたものとなっている。バージル・アルカジが描く花の豊かな色合いは、
色彩として正確なものではあるが、清澄さと鮮やかさを持っており、それらが単なる園芸学的イラストレーショ
ンには見い出せない次元をもたらしている。形態は有機的かつ堅牢で、コントロールされたものだ。だが、現実
そのままを描いたものを超えるような生気に満ちた色景を創造しているのは、その色調の相互作用である。バー
ジル・アルカジがいかに彼の主題へ反応するかということを共に分かち合えば、我々も何か自然の形態以上のもの
を見ているのだという事実を見失うことはない。すなわち、このアーティスト特有の美学言語のうちに表現され
た彼の精神を見ているのだということを。

これらの絵画を理解することが何か要求度の高いものであるならば、それはまた気分を浮き立たせることでもあ
る。そのイメージは私的なものに見えるが、個別なものを越える普遍的なものとの関連性なくしては存在し得な
い。そして、この点において、芸術を完全に経験することに必要な私的関わりの最終的要素を提供するように、
観る者に要求してくる。バージル・アルカジの絵画が持つ非常にエキサイティングな一面は、彼が我々にはその要
求に応えられるだけの知覚力と成熟した精神が備わっているとしている点である。彼のメッセージは常にとても
明瞭だとは限らない。すなわち、我々は創造的行為への参加を強制させられるのだ。しかし、その仕事は錬金術
師のようなものではない。彼が私的ヴィジョンに基づいて作品を創るとすれば、彼の芸術は単に近づきやすいと
いうだけではなく、それが差し出す経験に対して感情的にも美的にも開いた心を持った人々にとっては豊かな価
値を持つものである。バージル・アルカジは彼自身の精神性と世界観に非常に深く通じている。もし観る者に彼の
見方を分かち合うように要求しないとすれば―そして、これら見事に自己完結した作品のトーンに何も耳ざわり
なものがないとすれば―、彼の作品が持つ情熱豊かな芸術的完全性、またそこに吹き込まれている感情の深さに
よって、彼は感情的かつ知的反応を呼び起こすのである。

 

1 George S. Whittet, Mystic Dreamscapes: The Art of Basil Alkazzi  
(Brooklyn, Conn.: NECCA1988).
2 Basil Alkazzi, Portraits: Strangers No Longer Strangers, Now
 Acquaintances, Friends, Lovers. . . (Brooklyn, Conn.: NECCA 1989).
3 Max Wykes-Joyce, Basil Alkazzi--New Seasons… (Jersey, CI: Izumi 
Art Publications Ltd. 1993).
4 Ralph Waldo Emerson, Nature, Addresses, and Lectures 
(Cambridge, Mass.: Harvard University Press 1979) p.13.
5 Donald Kuspit, Basil Alkazzi--The Rites of Spring (Jersey, 
CI.: Izumi Art Publications Ltd. 2000).
         
 6 Donald Kuspit, Basil Alkazzi--New Horizons. . . . (Jersey,
 CI.: Izumi Art Publications, Ltd. 1998).
         
7 Ibid.





光山清子訳/Translated by Kiyoko Mitsuyama-Wdowiak

 

DENNIS WEPMAN
A graduate of Columbia University, New York, was Editor of 
Contemporary Graphic Artists; Senior Editor, Manhattan Arts; 
Cultural Affairs Editor, New York Dailey News; and Managing
Editor, Artis Spectrum. His articles have appeared in many 
periodicals, including; The Art Collector, Fine Art, Arte al Dia 
International, Manhattan Arts, New York Daily News,New York 
Daily News Magazine, amongst many others. He is now the Art 
Curator of the Karpeles Museumin Newburg, NY.
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